第十七段

原文

山寺にかきこもりて、仏に仕(つか)うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。

現代語訳(訳:きよしち - 2026-03-15

山寺にこもって、仏にお仕えすることこそ、「(退屈で手持ち無沙汰な)つれづれ」を感じることもなく、心の濁りが清められるような心地がするものである。

コメント

仏教の行事に邁進しているときが、最も心の濁りが清められると述べています。第十三段の私の感想で、『「心の慰め」を享受するだけでは生きていけないのが現実であり、現実と「心の慰め」とのバランスをどう取るかが課題です』と書きましたが、その兼好法師なりの考えがこの段に書かれているように思います。

第十二段では友人との関わりではなかなか心が慰められないと述べ、第十三段では過去の賢人の考えやフィクションの物語の世界に浸ることは心が慰められると述べ、第十四段第十五段第十六段、でもそれぞれ「心の慰め方」について述べてこられたように思います。しかしここで兼好法師が提示しているのは、「心の濁りを清める」という内容であり、「心の慰め」とはまた少し違うような気がします。

個人的にも少し思うところがあり、自分の余暇時間でエンタメに興じればなんとなく心は慰められた心地がするものですが、一方で「心の濁り」のようなものは浄化されていないように感じることがあります。それが何故なのかと言えば、「心の濁り」と向き合わずに、ある意味でエンタメに逃げているからではないかと思います。

兼好法師の言う仏教の行事に邁進する行為というのは、少し拡大解釈かもしれませんが、静かな環境で死に向き合い、残りの生の時間をどのように過ごすかという人生の目的や目標と向き合うことと等しい行為なのではないでしょうか。それはつまり自分の最大の課題と向き合うことであり、心の慰めに逃げるのではなく、自省して自分の生き方、時間の使い方と向き合うことが結局心の安寧には必要ということなのではないかと私は解釈しました。