第八十二段
原文
「羅(うすもの)の表紙は、とく損ずるがわびしき」と人の言ひしに、頓阿が、「羅は上下(かみしも)はつれ、螺鈿の軸は貝落ちて後こそいみじけれ」と申し侍りしこそ。心まさりて思えしか。
一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを、見にくしといへど、弘融僧都が、「物を必ず一具にととのへんとするは、つたなき者のすることなり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく思えしなり。
「すべて、何もみな、ことのととのほりたるは悪しきことなり。し残したるを、さてうち置きたるは、おもしろく、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず作り果てぬ所を残すことなり」と、ある人申し侍りしなり。
先賢の作れる内外(ないげ)の文にも、章段の欠けたることのみこそ侍れ。
現代語訳(訳:きよしち - 2026-08-24)
「羅(うすもの、薄い絹織物)の表紙は、すぐに傷んでしまうのがわびしい」とある人が言ったところ、頓阿(とんあ、兼好と親交のあった歌僧)が、「羅は上下がほつれ、螺鈿(らでん)の軸は貝が落ちてしまった後にこそ趣があるものだ」と申しました。その考え方のほうがまさっていると思われたことよ。
ひとそろいになっている冊子本などで、各巻の体裁が統一されていないのを、世間の人は見苦しいと言うけれど、弘融僧都(こうゆうそうず)が、「物を必ずひとそろいに整えようとするのは、つたない者のすることである。不揃いであることこそよいのだ」と言ったのも、たいそう趣深く思われたことである。
「総じて、何ごとも皆、物事が整いすぎているのは悪いことである。し残したことを、そのままにしておくのは、おもしろく、後まで生き延びる術である。内裏(だいり、皇居)を造営される時にも、必ず完了しない箇所を残すものである」と、ある人が申しておりました。
先賢(せんけん、昔の賢人)が作った内外(ないげ、仏典と外典)の文章にも、章段の欠けていることばかりございます。
コメント
物事に対する美的感覚として、「整いすぎているものは良くない」ということを主張している段ですね。第八十一段では「わびさび」に通じる「華美、珍奇を排し、質実剛健なもの」を良しとする美的感覚の主張が述べられていて、これは多くの日本人も同意できる部分だと思いますが、この段の内容には少し首を傾げる方が多いのではないでしょうか。しかし少し読み込むと、現代の感覚にも受け継がれているところがあると感じるはずです。
兼好法師は第十段で、庭木や調度品を人の手で作り込みすぎることへの批判を行っています。ただ、この第八十二段で語られているのは、少し性質の異なる二つの美意識だと思います。一つは頓阿の言葉に見られる、羅の表紙がほつれ、螺鈿の軸から貝が落ちた後にこそ趣がある、という時間の経過・使い込まれた姿を愛でる感覚。もう一つは弘融僧都や内裏の話に見られる、はじめから完成させず、あえて不揃いのまま残しておく感覚です。どちらも「作り込みすぎない」「完成させすぎない」ことをよしとする点では共通していて、兼好法師の美的感覚としては、そこに「粋」を見出していたのでしょう。また、頓阿や弘融僧都など、その感覚に同意するであろう人たちの意見も同時に述べられています。
この「整っていないものほど良い」という感覚は、「わびさび」と切り離されたものではなく、その一部として現代にも受け継がれているように思います。割れた器の継ぎ跡をそのまま景色として愛でる金継ぎや、茶道・庭園における左右非対称の構成などは、この段に通じる感覚ではないでしょうか。個人的にも、物事を頑張って整えようとするところがありますので、整っていなくても良い、作りかけのところがあるのが良い、という感覚を大事にしたいと感じた次第です。
ただし、兼好法師は第十八段で、物を持ちすぎない、増やしすぎないという清貧の生き方を理想として語っています。全てを綺麗に整えようとする必要はない、というのがこの段の主張だとしても、それは「散らかしていてよい」という話ではなく、そもそも物を持ちすぎない、という前提あってのものなのだと解釈したいところです。