第七十六段

原文

世のおぼえ、花やかなるあたりに、歎きも喜びもありて、人多く行きとぶらふ中に、聖法師(ひじりほふし)の交りて、言ひ入れたたずみたるこそ、さらずともと見ゆれ。

さるべきゆゑありとも、法師は人にうとくてありなん。

現代語訳(訳:きよしち - 2026-08-17

世間によく知られた権力者の家に、不幸や祝い事があって、人が多く訪れて弔意・祝意を示している。その中に、世捨て人の聖法師が交じっており、案内を申し込み、門口でたたずんでいるが、そのようにしなくても良いのにと思う。

何か理由があるのかもしれないが、法師というものは世間の人に対してはどこかよそよそしく、疎遠であって欲しいものである。

コメント

法師が権力者にすりよっている様を批判した段です。

この段で兼好法師が主張している内容を掴むには、兼好法師が生きた時代における仏教と出家者(法師)の在り方の変容を予備知識として持っておく必要があります。

当時は、法然や親鸞らが分かりやすい教えで仏教を大衆化させてから約100年が経ち、仏教が社会の隅々にまで浸透しきった時代でした。その結果、本来は欲を捨てるべき僧侶の中に、葬儀や祈祷を通じて権力者と結びつき、出世や利益を追い求める「名利の僧(ビジネス僧侶)」が急増するという弊害が生じていました。

兼好法師は、仏教の世俗化自体を批判しているわけではないと思いますが、仏教を究める立場である出家者は、本来の求道者としての姿勢を持つべきで、そのためには世間とはなるべく関わらないほうが良いという美学を持っていたのだと思われます。