第七十五段

原文

つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただ一人あるのみこそよけれ。

世に従へば、心、外(ほか)の塵に奪はれて惑ひやすく。人にまじはれば、言葉、よその聞きに随(したが)ひて、さながら心にあらず。人に戯(たはぶ)れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと、定れることなし。分別みだりに起りて、得失やむ時なし。惑ひの上に酔(ゑ)へり、酔(ゑ)ひの中に夢をなす。走りて急がはしく、呆(ほ)れて忘れたること、人、みなかくのごとし。

いまだまことの道を知らずとも、縁を離れて、身を閑(しづ)かにし、事にあづからずして、心をやすくせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。

「生活(しやうくわつ)・人事(にんじ)・伎能(ぎのう)・学問等の諸縁をやめよ」とこそ、摩訶止観にも侍れ。

現代語訳(訳:きよしち - 2026-08-17

つれづれ(することがないこと)を退屈に思う人は、どのような考え方をしているのだろうか。気が紛れることなく、ただ一人でいることだけがよいのに。

世間に従っていると、心は俗世の雑事に奪われて惑ってしまう。人と交際していれば、交際の中で飛び交う評判や思惑などの言葉に否が応でも従うことになり、自分自身が保てなくなってしまう。人と交際する中で、物事を争い、あるときは恨み、あるときは喜ぶ。そのことには、定まったものがない。あれこれの判断がいくつもみだりに起こって、損得の思いがやむ時がない。惑いの上に酔っており、その酔いの中でさらに夢を見ている。走り回って自分自身を慌ただしくし、呆けて物事を忘れてしまう。人は皆このとおりである。

まだ本当の道(仏道)を知らないとしても、俗世の縁を離れて、身を静かにし、物事に関わらないで、心を安らかにすることこそ、たとえしばらくの間であっても本当の楽しみであると言ってよいだろう。

「生活(暮らしの営み)・人事(人との交際)・伎能(技芸)・学問等のもろもろの縁をやめよ」と、摩訶止観(天台宗の仏教書)にも書かれている。

コメント

俗世との関わりをできるだけ減らし、心を安らかにすることこそが素晴らしいのだと主張している段です。第五段第三十八段でも似たように世間と距離を置くことについて述べられていますが、この段ではより具体的に、世間の中に居ると何が問題なのかということが語られています。

俗世に身を置いていると、評判や思惑、損得、焦りなどによって自分自身を忘れてしまう。だからこそ、仏道に入らなくても、たとえ少しの間であったとしても、俗世を離れ、自分自身の心を取り戻すことこそが本当に素晴らしいことなのだということなのだと兼好法師は書いているのだと思います。

ここで「仏道に入らなくても良い」「たとえしばらくの間であっても良い」というニュアンスで書いているところが兼好法師の一つの特徴であり、同じく隠遁文学である「方丈記」を著した鴨長明は実際に方丈庵で隠遁生活を送りますが、兼好法師は世間との関わりを続けました。世間には雑音も多いが、かといって完全に関わりを断ってしまうというのは、それはそれで極端だと兼好法師の生き方自体が体現しています。ただそうすると自分自身の心を平静に保つことが難しいので、定期的に世間から離れて自分の心をいたわることが必要であると、兼好法師はそのようなことを主張しています。