第七十二段

原文

賤(いやし)げなるもの。居たるあたりに調度の多き。硯に筆の多き。持仏堂に仏の多き。前栽(せんざい)に石・草木の多き。家の内に子孫(こうまご)の多き。人にあひて詞の多き。願文に作善多く書き載せたる。

多くて見苦しからぬは、文車(ふぐるま)の文、塵塚の塵。

現代語訳(訳:きよしち - 2026-08-12

品がなく見えるもの。座っている周りに道具類が多いこと。硯に対して筆が何本もあること。持仏堂(自宅の仏間)に仏像がたくさんあること。前栽(せんざい。庭先の植え込み)に石や草木が多すぎること。家の中に子や孫が大勢いること。人と会ったときに、言葉数が多いこと。願文(神仏への祈願文)に、自分の行った善行をあれこれ書き並べていること。

多くあっても見苦しくないものは、文車(ふぐるま。書物を運ぶ車)に積まれた書物と、塵塚(ごみ捨て場)に積もった塵である。

コメント

兼好法師は様々な例を挙げて、「賤しげ」という表現で批判しています。例として挙がっている批判の対象は、私の解釈では「過剰」であり「無駄」であるものだと思います。

自分が必要なものだけを持ち、ミニマムな生活をするのが好ましいというのは、兼好法師が既に第十段第十八段で強く主張している内容であり、徒然草全体を通して一貫した主張と言えます。

ただしこの段では、「書物 = 知識」と「ゴミ」は多くても良いということを述べており、他の段とは異なる内容も含んでいます。

何事も「足るを知る」精神を持ち、欲を出さずに自分に必要なものだけで暮らす。誰もがそういった精神で生活できると良いのかもしれません。