第七十一段

原文

名を聞くより、やがて面影は推し量らるる心地するを、見る時は、またかねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、「このごろの人の家の、そこほどにてぞありけん」と思えて、人も今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく思ゆるにや。

また、いかなる折ぞ、ただ今、人の言ふことも、目に見ゆるものも、わが心の内も、「かかることのいつぞやありしか」と思えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、わればかりかく思ふにや。

現代語訳(訳:きよしち - 2026-08-12

名前を聞くと、すぐにその人の顔かたちがおのずと思い浮かぶような気がするものだが、実際に会ってみると、あらかじめ思い描いていた通りの顔をしている人はまずいない。昔話を聞いていても、「この話の登場人物の家は、そのへんにあったのだろう」と思われて、物語の中の人物も、私が知っている人の誰かに似た人のように感じられるものだが、これは誰もがこのように感じるものだろうか。

また、どのような折であろうか、まさに今、人が言っていることも、目に見えるものも、自分の心の内にあることも、「このようなことが、いつだったか以前にもあったのではないか」と思われて、いつのことかは思い出せないけれども、確かに以前もこうだったという気がするのは、自分だけがこのように感じるのだろうか。

コメント

この段は、人間が物事を認識するときに、必ず既存の記憶や知識と結びつけて解釈してしまうという思考の癖のようなものを扱った段と言えると思います。

前半では、人は好き勝手に頭の中で物語を解釈し、その物語の登場人物や物を自分の知っている範囲のもので補完する傾向にある。未知のものに出会ったとき、人は自分の中にある知識や経験の断片を使って、それを埋め合わせようとする。そういったことを兼好法師は仰っているように思います。

後半は、今まさに起きていること、目の前で見聞きしていることに対して、「これは前にもあったのではないか」という感覚を覚える、という話です。この感覚は、現代ではいわゆる既視感(デジャヴ)としてよく知られているものです。これは前半の「経験していないことを補完する」という話とは逆に、「今聞いた話に対して、過去に経験したり補完した内容とを整合させて、既に経験した内容のように思われる」ということを指していると言えるでしょう。

前半・後半どちらも、人の心が現在の知覚を過去の記憶と絶えず結びつけようとする働きを扱っていると言えそうです。