第六十九段
原文
書写の上人は、法華読誦の功積もりて、六根浄にかなへる人なりけり。
旅の仮屋(かりや)に立ち入られけるに、豆の殻(から)を焚きて、豆を煮ける音の、つぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「踈(うと)からぬおのれらしも、恨めしく、われをば煮て、からき目を見するものかな」と言ひけり。
焚かるる豆殻(まめがら)の、はらはらと鳴る音は、「わが心よりすることかは。焼かるるは、いかばかり堪へがたけれども、力なきことなり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞こえける。
現代語訳(訳:きよしち - 2026-08-12)
書写の上人(性空上人。書写山円教寺の僧)は、法華経を読経する功徳が積もり、六根浄(眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官が清らかになること)にかなった人であった。
旅先の小屋にお立ち寄りになったとき、豆の殻を燃料にして火を焚き、豆を煮る音が、つぶつぶと鳴るのをお聞きになると、その音は「疎遠でもないはずのお前たちが、恨めしいことに、私を煮て、辛い目に遭わせるものだな」と言っているように聞こえた。
一方で燃料にされている豆の殻がぱちぱちと鳴る音は、「自分の心からしているわけではない。我々が焼かれるのは、どれほど堪えがたくとも、どうしようもないことなのだ。そのように恨まないでおくれ」と応えているように聞こえた。
コメント
万物の声を聴ける上人を登場人物とし、豆の殻が燃料となって豆を煮ている状況から、殻と豆の会話を空想した寓話のような段でしょうか。どうも中国の「七歩詩」という故事を元ネタにした内容のようで、兼好法師の教養の高さが伺えますね。ただ私は「七歩詩」について深く語れるわけではありません。
それにしても、豆を収穫した後に、豆自体は食用に、その豆の殻を燃料にするとは、昔の方はよく考えたものですね。