第五十二段
原文
仁和寺にある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心憂く思えて、ある時、思ひ立ちて、ただ一人、徒歩(かち)より詣でけり。極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、「かばかり」と心得て、帰りにけり。
さて、かたへの人に会ひて、「年ごろ思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、貴くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん。ゆかしかりしかど、『神へ参るこそ本意(ほい)なれ』と思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしきことなり。
現代語訳(訳:きよしち - 2026-06-24)
仁和寺(にんなじ)に住む法師が、年老いるまで石清水(いわしみず:石清水八幡宮のこと、現在の京都府八幡市)を参拝したことがなく、心残りに思っていた。ある時、思い立って、ただ一人で徒歩にて参詣した。(麓にある)極楽寺・高良(こうら)などを拝んで、「これだけか」と思い込んで帰ってしまった。
さて、近くにいた人に会って、「長年の念願を果たしました。聞いていた以上に、なんと尊いことでありましたよ。それにしても、参詣した人がみな山へ登っていたのは、いったい何のためだったのでしょうか。行ってみたい気はしましたが、『神へ参拝することこそが本来の目的だ』と思い、山までは見ませんでした」と言ったのだった。
どんな些細なことにも、案内人(先達)はいてほしいものである。
コメント
一種の笑い話というか、落語のような雰囲気を感じさせる段ですね。知識を持っている人が貴重であるという意味では第五十一段との関連性も感じられます。
石清水とは京都の石清水八幡宮のことだと思いますが、ここは山の上に本殿があることで有名な神社です。仁和寺の法師が石清水八幡宮に出掛けてみたが、山の麓だけを見て、山の上まで行かずに帰ってきてしまった。本人はそれで得意になって「素晴らしかった」などと吹聴していると、こういう話ですね。
話の結びとしては、何事も有識者から案内を受けたほうがいいということを兼好法師は仰っています。現代ではスマホで何でも分かる時代ではありますが、あくまでそれはバーチャルな案内であり、どうしても事前に得られる知識には限界があります。新しいところに行ったりする場合は、その場所のリアルな事情を身をもって体験している有識者の案内を得ることが一番なのでしょうね。