第三十一段
原文
雪のおもしろう降りたりし朝(あした)、人のがり言ふべきことありて、文をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返り事に、「『この雪いかが見る』と、一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるること、聞き入るべきかは。かへすがへす口惜しき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。
現代語訳(訳:きよしち - 2026-04-24)
雪が趣深く降った朝、ある人のもとへ用件があって手紙を送った。その際、雪のことには全く触れなかった。
その手紙の返事に、「『この雪をどう見ているか』というようなことを一言もお書きにならないような、風流を解さない方の仰ることを、どうして聞き入れることができましょうか。全くもって残念なお心構えです」と書いてあったのが、非常に趣深かった。
今はもう亡くなった人であるから、これほど些細な出来事であっても忘れがたい。
コメント
ある人に手紙を送ったところ、その日に降った雪に全く触れずに本題に入ったことを批判されたと述べています。
当時はそういう文化だったのでしょうか。確かに、昔ながらの手紙の作法では、例えば暑中見舞いの際には「梅雨も明け、いよいよ夏本番を迎えました。皆様におかれましては・・・」といった風に必ず季節の変化などに触れているような気もします。こういった昔ながらの作法は兼好法師の時代から脈々と受け継がれてきたものだと思うと感慨深いですね。