第二十四段
原文
斎王の、野宮(ののみや)におはしますありさまこそ、やさしく、おもしろきことのかぎりとは思えしか。経・仏など忌みて、「中子(なかご)」・「染紙(そめがみ)」など言ふなるもをかし。
すべて、神の社こそ、捨てがたくなまめかしきものなれや。もの古りたる森の気色もただならぬに、玉垣しわたして、榊(さかき)に木綿(ゆふ)かけたるなど、いみじからぬかは。
ことにをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮。
現代語訳(訳:きよしち - 2026-03-26)
斎王(さいおう)が、伊勢へ下る前に野宮(ののみや)に滞在されている様子は、優雅で、この上なく趣深いものと思われた。神事の場であるため、経典や仏といった仏教用語を忌み避けて、それぞれ「中子(なかご)」「染紙(そめがみ)」などと言い換えるのも興味深い。
総じて、神社の社は、見捨てがたく優美なものである。古びた森の様子がただならぬ雰囲気を漂わせているところに、玉垣を張り巡らし、榊に木綿を掛けてある様子などは、実に素晴らしい。
格別に趣がある神社は、伊勢、賀茂、春日、平野、住吉、三輪、貴布禰、吉田、大原野、松尾、梅宮である。
コメント
こちらの段では仏教とは打って変わって神道のことが述べられていますね。古来からの仏教と神道の関わりについては個人的に興味があるところでしたが、徒然草の中でこのような当時の感覚が見受けられる記述に出会えるとは思いませんでした。
現状(2026年3月)の理解では、古来から続く神道、そこに後から入ってきた仏教という構図で、そうすると世の中の人々は後から入ってきた仏教を受け入れがたくなってしまいます。元々、神道というのは懐の深い考え方であり、「八百万の神」という言葉もある通り万物はすべて神たりうるというものです。そういった多神教的な精神を持っている人達にとっては、仏教で述べられる仏たちは一体何なのか、神との関りはどういうものなのかということが気になります。そこで平安時代から「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」という考え方が成立し、これは日本の神とは仏教の仏の仮の姿であるというものです。このような考え方で仏教と神道は融合し、人々に広まっていきました。現在はこのような理解をしています。
ですが正式な儀式の際には、やはり両者は相容れないものなのですね。斎王が神事の場で仏教用語を避けたというところから当時の考え方が読み取れます。興味深いですね。