第百十六段

原文

寺院の号、さらぬよろづの物にも、名を付くること、昔の人は、少しも求めず、ただありのままに、やすく付けけるなり。

このごろは、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞こゆる。いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なきことなり。

何事も、めづらしきことを求め、異説を好むは、浅才の人の必ずあることなりとぞ。

現代語訳(訳:きよしち - 2026-09-27)

寺院の号(名前)や、その他あらゆる物にも、名を付けることについて、昔の人は少しも工夫を求めず、ただありのままに、簡単に付けたものである。

このごろは、深く考え、才覚を表そうとしているように聞こえる。とても煩わしい。人の名も、見慣れない文字を付けようとするのは、無益なことである。

何事も、珍しいことを求め、異説を好むのは、浅い知恵の人に必ずあることだという。

コメント

何かに名前を付けることに関して、簡素で分かりやすいものが一番だということを主張した段です。そこから発展して、どんなことであっても、珍しさ、異説を好むのは浅い知恵の人がやることだ、ということも述べられています。こういった、簡素なものこそ良く、華美、装飾、作為を嫌う兼好法師の主張は第十段や第五十四段で繰り返し述べられている内容であり、徒然草全体を貫く簡素、自然体こそが良いという主張を背景としたものです。

キラキラネームが一時期話題になりましたが、ある程度の常識や知識が無いと、そういう名前を好んでしまうものなのでしょうか。なお昔は、名付けにあたって父祖の名の一字を継いだり、後見人となる地域の有力者や寺の住職から字を受けたりする慣習もあり、そうした一定の型を踏むことで、突飛な名付けを防いでいた面もあったのかもしれません。

何事もシンプルに考え、誰もが理解しやすいように表現することが重要なのだと感じます。