第百十一段

原文

「囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重五逆(しぢゆうごきやく)にもまされる悪事とぞ思ふ」と、ある聖(ひじり)の申ししこと、耳にとどまりて、いみじく思え侍る。

現代語訳(訳:きよしち - 2026-09-19)

「囲碁や双六を好んで、明け暮れそれにふけって暮らす人は、四重(しじゅう、殺生・偸盗・邪淫・妄語という仏教の四つの重い罪)・五逆(ごぎゃく、父殺し・母殺しなど仏教で最も重いとされる五つの罪)にもまさる悪事だと思う」と、ある聖(ひじり、徳の高い僧)が申したことが、耳にとどまって、たいそう身にしみて思われる。

コメント

囲碁や双六のようなゲームに明け暮れて暮らす人を強い言葉で批判している段です。

四重・五逆という、仏教における大悪事とされる内容に囲碁・双六のような「遊興」は含まれていませんが、遊興に耽溺する生き方は、生涯にわたって仏道修行の機会を日々浪費し続ける行為であり、一時の大罪よりむしろ罪深いという価値観に基づく批判であると思われます。双六は特に金品を賭ける博打の要素が強く、囲碁も賭け事として行われることが多かったため、耽溺・散財・不正といった実害を伴う点が非難の対象になったのだと思われます。

一方、兼好法師自身が愛好した和歌や神楽は、宗教儀礼(神楽は神事そのもの)や「狂言綺語を仏道に転ずる」という思想によって、当時は宗教的・文化的に正当化される枠組みを持っていたようです。同じ「遊び」でも、囲碁・双六とはそこで区別されていたのでしょう。

しかしながら、兼好法師が最後に「いみじく思え侍る」と書いているのは、遊興に興じる人への批判に同調しつつも、和歌や神楽に耽溺する部分もある自分自身に関しても少し顧みることがあったためにこういう書き方をしたのではないかと想像します。