講談社文庫:匣の中の失楽
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日本三大奇書 + α
日本三大奇書「ドグラ・マグラ」「黒死館殺人事件」「虚無への供物」と並び称される「奇書」、「匣の中の失楽」を読みました。
一部では上記日本三大奇書に「匣の中の失楽」を加えて、日本四大奇書と呼ぶ向きもあるようですね。
ミステリファンとしては、やはりこれらの「奇書」は読んでおかなければならないと思い、「ドグラ・マグラ」「虚無への供物」は読了済みです。 「黒死館殺人事件」については「衒学的なだけ」「難しい漢字が多いだけ」のような評価が多いため、いったん後回しにしています。
「匣の中の失楽」を購入してみて、まずその圧倒的な厚さに驚きました。長い。 約1か月をかけて、少しずつ読み進めました。
以下、ネタバレありの感想を書いていきます。
【以降ネタバレあり】
物語の「構造」
まずこの物語は、ミステリっぽい「不可解な殺人」「謎解き」をメインに話が進みますが、主眼となる部分はその点ではありません。 主眼となるのは「作中作」とその「構造」にあります。
序章、第一章、第二章、第三章、第四章、第五章、終章という形式で物語が語られます。 第一章で殺人が起こり、その殺人についてグループが話している中で、登場人物の一人であるナイルズが「『いかにして密室はつくられたか』という題名の実名小説を書いている」ということを語ります。 次に第二章の冒頭で「今までの第一章の話はナイルズの書いた『いかにして密室はつくられたか』という小説であった」ということが語られ、第二章では第一章で起こった殺人は起こっていないことになっています。
第二章の時点で、読者はめくるめく「物語の中の物語」の世界に引き込まれることになります。
【補足】作中作とは
作中作というのは一種のミステリ用語で、「物語の中の登場人物が書いた物語」のことです。
この「物語の中の登場人物が書いた物語」がその物語自体の本筋として語られ、そこから様々なことを読み取ったり、推理を広げていくのが作中作の登場するミステリです。 あまり他の作品のネタバレになってしまうと良くありませんので詳しくは書きませんが、例えば「書き手の意図」によってその物語における現実が捻じ曲げられて表現されているケースがあり、その「書き手の意図」を読み取って推理を広げたり、想像を膨らませたりしていくことになります。
第二章での気付き
第二章では「第一章での出来事は小説の中の出来事だった」という前提で話が進みますが、ここで思い出して頂きたいことがあります。
先ほど、第一章のナイルズは「『いかにして密室はつくられたか』という題名の実名小説を書いている」ということを語っていたと書きました。 そして第二章のナイルズもまた、『いかにして密室はつくられたか』という題名の実名小説を書いており、それが第一章の物語だったということを冒頭で説明します。
つまりナイルズは、物語の中で「お話の中の出来事である」と明言されている作中作の中でさえも、作中作を書いています。 説明すると、第一章は第二章において作中作とされているが、その第一章の中でもナイルズは作中作を書いていると語っているということです。
私はいくつか作中作もののミステリを読んだことがありますが、そのいずれも物語としての「現実」があり、その現実の中の登場人物が書いた「架空の物語」が本筋として登場するというのが作中作ものの展開です。
しかし「匣の中の失楽」は違います。 第二章の時点で、作中作の中の人物も作中作を書いていることを語る。 なるほどそういう趣向なのかと、第二章の時点で私はこの「奇書」と呼ばれる小説の「構造」に膝を打ちました。
そして第二章では第一章とは異なる殺人が発生し、それについて皆がまた議論を行うことになります。 この議論の内容がまた「奇書」たる所以なのですが、非常に衒学的であったり的外れであったりと「虚無への供物」をはじめとした「複数探偵もの」よろしく混迷を極めます。
要は名探偵が不在なのですね。 このあたりにも「アンチミステリ」「奇書」と呼ばれる所以が見え隠れします。
第三章以降での展開と物語の主眼
そんなこんなで第三章が始まりますが、またもや第三章の冒頭でも「第二章の内容はナイルズの『いかにして密室はつくられたか』という小説だった」ということが語られます。 そしてこの第三章の舞台では、第一章で発生した殺人が発生しており、第二章で発生した殺人は発生していません。
さてここでついに読者も気付きます。
「これは作中作が入れ子になっている物語なのだ」ということにです。
これがこの小説のまさに主眼と言える「仕掛け」でしょう。
その後第四章、第五章と交互に「作中作」が入れ替わりながら話が進みます。 終章は第五章からの続きという設定で語られますので、偶数章は実質的に第二章と第四章しかなく、明確な解決はないままに物語は終結を迎えます。
物語の深読みには時間が足りなかった
殺人の内容と、それに伴って誰が探偵役になるかは奇数章と偶数章で異なりますが、両者で共通的に発生する出来事もあります。
この「共通的に発生している出来事」と「そうでない出来事」、「この物語はナイルズが書いているということ」このあたりから様々な推理を広げていくことができそうに思います。
例えば物語の中で、「ナイルズが杏子に悪戯されていた」という内容の話が出てきます。 こういった内容は、ナイルズが書いている物語だとすれば本来書きたくないことのはずだと思います。 であればこれをなぜ書いたのか?わざわざ書く動機があるのかどうか?
また、第一章で最初の被害者として登場する曳間は、奇数章では当然登場しませんが、偶数章では一人優秀な探偵役として活躍します。 「一人優秀な探偵役」という表現をしたのは、周りがあまりに的外れなことばかりを言う中で明らかに異彩を放つほど合理的な推理を並べる「役」として意図的に描かれていると感じたからです。 この物語がナイルズの書いている作中作でもあるのならば、曳間をここまで優秀な探偵として描く必要が果たしてあるのかどうか?ナイルズと曳間との関係は何かあったかどうか?
こういった一種の「違和感」から、どちらが物語の中での現実なのか、作中作なのかということについて考察を進めることができそうに思います。
しかしながら私の現在の立場は時間に余裕のないしがない中間管理職サラリーマンです。 奇書を読破するためのモチベーションはあっても、そういった深読みをして物語の中に浸ろうというモチベーションは残念ながら湧いてきません。
いくつかのWEB上の考察を読んでいると、奇数章が現実であるという意見が多いようです。 本当にそうなのか?私の意見と推理を戦わせてみたい。 そういった想いはあれど、ちょっと現実的に、今の状態では難しいですね。
また時間にたっぷり余裕のある際に挑戦してみたいと思いますが、それはいつになるやら。
本当の「犯人」
物語は第五章で一応の謎解きが行われることで解決を見せます。
内容としては「それぞれの殺人において犯人が異なる」という結末でした。 こういった結末も、アンチミステリとして相応しいものだと思います。
ただそれよりも、私はこの物語の終盤に気になったワードがあります。 それが「ラプラスの悪魔」です。
ラプラスの悪魔とは、「19世紀のフランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスが提唱した、全宇宙の原子の現在位置と運動量を知り、解析できる知性(仮想の存在)のこと。決定論に基づき、過去と未来の全てを見通せる存在」とのことで、要は神様のようなものを指す概念です。 ナイルズは物語の終盤で、「なぜこんな事件が発生したのか。常識ではこんなことが起こるはずはない。ラプラスの悪魔は存在しないということが証明されたが、もしかするとそのような存在に自分たちは操られているのではないか」というようなことを述べます。
ここにこの小説の真の犯人が浮かび上がると私は思います。 その犯人とは、まぎれもなく作者である竹本健治その人を指しているのではないでしょうか。
彼こそが、ナイルズの暮らす「現実」を構築し、かつ作中作によって現実の位置を眩まし、不可思議な事件を発生させた「ラプラスの悪魔」なのだとナイルズは示唆しているのではないでしょうか。
私はこのようにこの小説の結末を解釈しました。